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先生と

TOV先生フレン×生徒ユーリ

過去頒布した同人誌の再録です

お手に取ってくださった方々

ありがとうございました。

 風が吹く度に粉雪が舞う。家を出てからずっと、曇り空を浮かべた灰色の空を教室の窓から眺めていた。

 

 教卓の方から聞こえるのは彼の声。

 優しくて、穏やかで、まるで歌声でも聞いているかの様な暖かな声は、今この時ばかりはオレだけのものじゃない。

 恋人として愛してるだなんて言われたことは一度も無いけれど、いつも肝心な所で抜けている彼らしいとさえ思えた。自分達はきっと世間からは理解のされようの無い関係で、お互い分かっているからこそ口に出すのは億劫で。彼に以前、数年付き合っていた彼女がいたことは聞いていたし、いても当然のルックスと性格と年齢で、特に傷つくことはなかったのだけれど。

 それでもたまに、自分が一番嫌う“面倒な子供”になりたくなるのはどうしてだろうか。

 その元カノと、オレとどっちが好きかなんて、優しい彼なら当然選ぶであろう方の答えを敢えて聞きたくて、困らせたくなるのだ。

 本当は困らせることも我が儘を言うことも大嫌いで、しんどい筈なのに、そんな答えを聞いた所で胸の中で渦巻く意地汚くて傲慢で醜くてオポテュニズムな臭い考えが吹っ飛ぶ訳でもないと云うのに。

 恋愛は面倒だ。特に、相手が自分よりも様々な面で圧倒的に秀でている時の場合。それは年齢、つまりは人生経験が豊富であればあるほど、自分がひた向きに起こしているアクションも相手から見れば、とてつもなく幼稚で可愛らしいものの様に映っているのではないかと思うと恐ろしくなり、憎くらしくもなる。

 そうじゃないんだ、オレは、隣に並べるとは思ってないけれど、アンタの歩幅に追いつける様になればそれで。

 こうして慌てている姿も、相手から見れば「可愛い」の一言で済むのかと思うと泣いてしまいそうだった。

 

「空気が乾燥して来ているので、マスクなどでの風邪の予防はちゃんとする様に――」

 

 〈先生〉が言う。

 オレがこうして窓を眺めている横顔を、彼は何度心の中で気にかけてくれただろうか。「教室の中では君を特別扱い出来ない」と言っていた真面目な彼はそんなこと、気にする訳も無いのに少しだけ望んでしまうのも嫌だった。しんどいなあと嘆くのに、この心苦しさが無くなってしまうのはもっと寂しい様な気がして、少し湿気た木の香りがする机に突っ伏しながら腕に顔を押し付けて目を閉じて眠った振りをする。

 

 朝のホームルームは大嫌い。

 我が儘になってる自分を自覚するから。

 

  ◇

 

 背が伸びた、そんな気がしていた。

 腹が痛いと言っている友人に付き添って、昼食後、保健室に寄った序でに身長を測った。

 指されていた数値は174センチ。今年の春は、確かこの数字よりも2センチは低かった。少しの満足感を抱えながら早退させて欲しいなどと保険医に駄々を捏ねている友人を他所に、自分はふらりと部屋を出て、廊下の壁に凭れる。

 廊下はひんやりと冷たくて、乾燥しない様に暖められていた保健室との温度差が鮮烈だった。自分の目的を果たした今ならこのまま教室に帰っても構わなかったが、それでは流石に置いて行かれる友人が可哀想だろうと、廊下を行き来する生徒や教員の邪魔にならぬ様に身体を縮み込ませてブレザーのポケットに手を突っ込み、手探りで中の携帯に触れる。

 校内での携帯の使用は禁止。教師に見つかればややこしい事になる。

 携帯の他にも、ポケットの中には昨日使用したまま放置され、固まったカイロ、飴の袋なども交じっていて少しだけ難儀したが、漸く人通りの多いこの廊下でこっそりと液晶を灯すことには成功した。

 ――未読メールが一件。

 その表示に期待で胸が鳴る。狭いポケットの中での操作は面倒だったが、器用に液晶へ指を滑らせて、未だ読まれていない希望のメッセージを開封する。

 だがしかし、その瞬間、メッセージの件名が目に入ったオレは大袈裟なくらいに肩を落とすのであった。

 どうしてかと言われれば、前に会員登録したレンタルビデオ屋からのダイレクトメールだと分かってしまったから。

 彼は未だメールを読んでいないのか、読んだけれど返せないのか。昼休み中の今なら時間だってあるだろうに。

 朝のホームルームで黒板の前に立ち、淡々と生徒へ来週の避難訓練の説明していた彼とは、自分は生徒の一員となって紛れ込み、寝た振りをして一切目を合わせなかった。おまけに午後まで彼の授業は無く、廊下で擦れ違う事も無かった為、つまりは、彼とは本日一度も目を合わせていないのだ。

 そんな彼からの返信かと、思っていたのだ。朝から彼を見ていない自分にとって、この仕打ちは少しだけ痛かった。

 でも、なにも理由無く寝た振りをして、彼の目を見なかった訳では無い。今朝は一緒に学校まで行こうと約束をしていたのだ。なのに、彼は又もやオレを置いてさっさと行ってしまったのである。

 又もや、この表現が使われると云う事からお察しして頂けるかも知れないが、ご想像通り置いて行かれたのはこれが初めてではない。合計で十、いや、ニ十はいくだろうか。下らない理由だろう、笑いたければ笑うが良い。

 挙げ句の果てに自分はその腹癒せに、目を合わしてやらないと云う何とも子供臭い嫌がらせを彼に仕向けた訳だが……結果、自分が苦しんでいる時点で、失敗に終ったと見て良いだろう。

 何もかもが上手くいかない金曜日。嫌気が差して、自分も家に帰りたくなった。だが、健康だけが取り柄の若い身体は都合良く熱が出てくれる筈もなく、ただ刻一刻と昼休みが終るのを待つだけであった。

 彼は分かっているのだろうか。並んで学校に行けるという些細な事に張り切って、慣れない早起きをし、校則違反ギリギリまで伸びた髪をワックスで塗り固めては制服をいつもより丁寧に着込み――彼がボタン一つでも飽いていると口煩いからである――鏡の前で頷く阿呆なオレを。

 まだ眠い瞼を擦りながら階段を下りて、朝食の香りがする居間へと足を運ぶと、自分に部屋を貸してくれている宿屋の女将さんが何ごとも無いように「フレンが用事が入ったから、今日は一緒に行けないですってよ。アンタに伝えておいてくれって早くから言いに来てね」などと告げられる、オレの気持ちを。

 朝飯を食べている時に告げられて、口では「ふうん」なんて興味無さげにしていたが。

 内心では結構落ち込んでいることも含めて、彼は知っているだろうか――いいや、知らないに決まっている。それもこれも、約束をすっぽかされた際の今までの自分の態度が悪かったのだが。

 彼、フレンは冷たい人間ではない。何処までも優しくて、それ故に厳しい。時には叱ってくれて、またある時には自分を認めてくれる。自分を甘えさせてくれる唯一の人物であり、傍にいたいと思える人。

 オレが寂しい朝を迎えた日、フレンは可哀想なくらい頭を下げて毎回謝ってくれる。自分は「フレンが忙しい事はちゃんと分かってるから」と白々しく余裕ぶって作り笑いまでして。

 本当は女々しいくらいに寂しかった癖に。

 でも、彼が忙しい事も言葉通りにちゃんと分かっているから、「聞き分けの出来る良い子」を演じるしか出来ないのだ。

 子供だとか、面倒だとか思われたくない。高校生や教え子として、自分を見て欲しくなかった。ユーリ、それがオレの名であり、人格を示すもの。高校二年生の近所の子供としてじゃなく、ユーリ・ローウェルという一人の人間として彼の瞳に写して欲しかった。

 だから自分は、極力拗ねたり我が儘を言う事を控えた。自分の借家から、彼の家までは遠くはない距離……と云うか、お向かいさんで、別に帰ってから会おうと思えば会えたけれど、オレはそれを自主的に一度もしなかった。

 迷惑をかけたくないことを第一に思っている自分にとってみれば、唐突な自宅訪問は少し躊躇する行為だったのだ。フレンだって遊んでる訳じゃない、分かってる、だからオレは我が儘なんて言わない。

 聞き分けの出来る大人で、歳なんて飾りで、相手がオレと一緒にいても疲れないように。

 でも、必死に取り繕っても自分自身は誤摩化せなかった。それが、今日爆発した。

 だから朝は目を合わせなかったし、“あんなメール”を彼に送ってしまったのだ。

 慣れない事をしたからだ。最初から、傲慢で我が儘で、思った事はすぐに口に出してしまう、何より我慢する事が嫌いで、幼い頃から内面的な成長が貧しいオレをフレンに曝け出していればこんな事にはならなかった。

 でも、逆を言えば自分自身を偽ってでも、フレンの前ではそうでありたかった。

 

 オレとフレンの妙な関係は、蝉が鳴き始める少し前から始まった。

 今年、フレンはこの地元に高校教師となって帰って来た。数えるに六年ぶりの再会。それだけでも驚きだったのに、偶然にもオレが通う学校に就いて、挙げ句の果てには担任にまでなって。

 こんな田舎、学校の数だって本当に限られているのだ。

 だから彼が自分の担任になるという確率は、そう低いものではなかったかも知れないけれど、偶然にしては良く出来過ぎたもので、ガキの頃懐いていた兄貴の様な存在だった彼が今では自分のセンセイになるという現実に目眩さえも覚えた。

 何故連絡の一つも寄越さなかったのか、どうして一度も帰って来てくれなかったのか。言いたい事は山程あったが、全て忘れるくらいの出来事で。

「なぁ、あれ、フレンじゃね? お前と一緒によくいた兄ちゃんいただろ」

 始業式の日、欠伸が止まらずに頭を掻いていたオレを揺さぶりながら、昔からの友人が話しかけて来た。

 桜が舞う校庭で、女子達の視線を一身に受けながら挨拶をするフレンが目に入り、驚きのあまりに彼から目が離せずにその場に立ち竦んだものだ。

 いつもは面倒でしかない式典が一瞬の速さで過ぎ去って行き、ざわめいたままの新しい教室で、黒板に自分の名前を書いていく彼を一番後ろの席で変わらず見つめた。

 開いた窓から風が吹き込み、色素の薄い軽い髪が揺れて輝く。教師らしくない、その風貌はあまりに整い過ぎていて「モデルさんみたいだ」と声を潜めて嬉しそうに話し合う女子の声が聞こえた。

 クラスの連中は小学生の頃から殆ど見慣れた顔触ればかりで、クラス替えと云っても二クラスしかなく、特に盛り上がる事もない。田舎なんてそんなものの筈なのだが、そんないつも通り過ぎる筈だった新しい生活は、新任の教師の訪れと共に音を立てて崩れて行く。

 名前を書き終えたフレンが前を向いた瞬間、誰も喋る事は無かった。

 

「先程、校庭で挨拶をさせて貰いましたが、改めて皆に挨拶をしたいと思います。初めまして、この春から担任を受け持つ事になりました。フレン・シーフォです。担任となるのは初めてですが、精一杯頑張りますので――」

 

 ――よろしくお願いします。

 野暮ったいジャージで教卓に立つ教師が多い中、皺一つない、硬そうなスーツを纏って微笑むフレンは色んな意味で浮いて見えた。彼の周りの空気だけが切り離された様な、否、澄んでいると云えばいいのか。例えようの無い妙な浮遊感に浮かされているのは彼なのか、自分なのかも分からなかった。ただただ眩しくて、何処か懐かしくて。

 鼻の奥がツンとする。雨に濡れたコンクリートが乾き始めた時の様な、嗅ぎ慣れている筈なのに毎回懐かしく新鮮な気分にさせられる切なさに似ている。

 覚えているのに、慣れ親しんでいる筈なのに。けれど最後に戯れたのはいつだったか――嗚呼、思い出せないと、もがいている間にコンクリートはカラカラに乾ききってしまう。

 まあるい硝子玉越しに見上げた太陽の光の様に容赦も無く、覚束ない光の強さは危なげで、それでいて愛おしい。

 昔から、フレンは太陽の光に似ていた。

 そうだ、フレンは、相変わらずだったのだ。

 

 始業式があるんだろうと女将さんに金を握らされ、近所の散髪屋で先日、雑に切り揃えられた襟足が項を掠めた。

 式は昼前に終ったが、なんだか家に帰る気にもなれず、友達からの誘いも断って、昼食も食べずにまだ寒々しい海辺まで自転車を飛ばして駆けた。金を貯めて買ったミュージックプレイヤーで適当な音楽を流し、冷え込む夕方の浜辺で黄昏れて、鼻水を垂らしながら湧き立つものを落ち着かせる。

  明日から、どんな顔をして教え子としていればいいのか。自分が意識し過ぎなだけなのか、どうしてもっと軽々と声をかけなかったのか。これでは、余計に話しかけ辛いではないか。

 うんうんと頭を悩ませるが、持ち前の適当さで、結局はどうにかなるだろうという曖昧な結果に至り、本格的に風が冷たくなっていくのを頬で感じて帰ろうかと溜め息をつく。

 色々考えながら重たい腰を持ち上げて、錆びた自転車に跨がり、坂道を下っていく。家から学校までのバスも出ているが、自分はこうして帰るのが好きで、態々自転車での行き来を一年生の頃から行っていた。少し早めに出れば遅刻ギリギリに学校へつく。そんな毎日だった。

 女将さんや近所の人は、どうせフレンが帰って来るのを知っていて、オレが吃驚するのを分かっていながら黙っていたのだろう。そんな心臓に悪いサプライずなどいらないと、帰ってから抗議を申し立てる必要があるなと口を尖らせた。

 ――そして、家に帰って自分はまた目眩を起こす事になるのだ。

 まず、見慣れた道を右に曲がり、すぐそこにある宿屋の敷地内に入って首を傾げた。

 いつも自分だけが自転車を停めるスペースに、どうしたのか、矢鱈と自分以外の自転車が停められてあったのだ。春休みも終えて、客が来るとは思えない時期。ましてや、こんな団体客を迎えれる客室も多くなければ、殆どの客が船から徒歩で、この宿へ来るのに自転車など使う筈も無い。つまり、この多くの自転車の持ち主は客でなく地元民のものであることが分かる。

 嫌な予感がする、が、それを強く思えば現実になると恐る恐る平然を装って「ただいま」と声をかけて宿の裏口から入っていった。

 そこで目にしたものは、靴がぎっしりと溢れかえっている玄関。廊下を歩き、居間に近づくに連れて笑い声や話し声が大きくなっていって、なにか宴会でもしているのかと首を傾げながら、そっと広間の戸を開ければ自分の登場に「おっ」と幾つかの声がかかる。

「よぉユーリ! 遅いじゃねぇか、でぇとでもしてたか」

 続いて完全に酔っぱらっている声が聞こえ、その声に釣られて笑うのは集まって来ていたらしい近隣住民。

 まだ夜になったばかりだと云うのに何をしているのかと呆れながら「ちげぇよ」と慣れた風に返しつつ、そういえば、そんなことよりも問い詰めなければならない事があると都合良く皆が集まっている席で腰に手を当てて不満げな声を上げる。

「おい、それよりさ、ありゃどういう仕打ちだよ」

「仕打ちぃ? なんのこった」

「とぼけても分かってんだろ、ニヤニヤしやがって……フレンだよ、フレン。どうせアンタら分かってて――」

「僕がどうかした?」

 朝にも、聞いた気がする声。オレの膨れっ面を見ながらニヤついている、酔いで顔を赤らめた近隣住民の中を視線で掻き分けて見やれば。卓子の向こうに座っている、微笑むフレンが見えて思わず戸の前でずっこけた。

「お、お前! いるなら言えよ!」

「君が僕に気付かなかったんじゃないか」

 本人がいる所で思わず自身の動揺を曝け出してしまい、恥ずかしいやら悔しいやらで思った以上に大きな声が出る。フレンは相変わらずと云うか、動揺一つせずにオレの理不尽な鬩ぐに肩を竦めてまた少し笑った。フレンもフレンだ、帰って来る時くらい、連絡の一つや二つオレにしてくれたって良かったんじゃあないか、最初は酔っぱらっている大人達だけに感じていた憤りがフレン自身にも飛び火して、「お前も電話の一つくらい」と言葉を続けようとしたのを周りの大きな笑い声に寄って遮られる。

「始まったぞ、ユーリの理不尽な啖呵から始まる懐かしい口喧嘩が」

 ユーリは昔からそうしてフレンとよくもめていた、と云うより、フレンに叱られていたっけなあ――等とオレ達の光景を懐かしむ声がそこら中から溢れて毒気を抜かれてしまう。ああ、もう、今日はどうしようもない日だと自分の思う様に進まない目の前の出来事に大きく舌打ちとすると、フレンから一言。

「こら、舌打ちなんてするもんじゃないよ」

「そうだそうだ。フレンの言う通りだぞ、ユーリ」

「うっせ! ガキ扱いすんな!」

 何を呑気な事を、元はと言えばお前が前もって言っていれば、いや、そもそもこまめに連絡を寄越していればオレはこうまで周りから遊ばれなくて済んだのだし、心の準備だって出来たのに。毎朝呑んでいる牛乳のカルシウムが切れてしまったのか、妙に腹立たしく、襖を思い切り閉めて自室に行こうかと床に落としていた鞄を肩にかけ直し、皆に背を向けると、そこには両手に酒のつまみが入った大皿を台所から運んで来たらしい女将さんと鉢合わせとなってしまい、急に勢いを落とした足下がヨロつく。

 アンタ何してんの、という不思議そうな女将さんの声に続いて、背の方から「明日から向かいの空き家にフレンが入るから、お前も荷物運んでやりな」と酒屋のオヤジの声が聞こえ、どうやらこれはフレンが地元に帰って来た祝いなのだと漸く察した。どう見ても、酒を呑んで馬鹿騒ぎしたい大人の集まりにしか見えなかったが。

「早く着替えてらっしゃい、アンタ昼ご飯も食べず何してたの。さっさと食べないと片付けるよ」

「へーいへい……」

 皆が囲む、卓子の上に佇んでいた空の皿を重ね、湯でたての枝豆が入った大皿を代わりに置く女将さんに、夕食と云っても夕食らしいものなどそこには無いじゃないかと云ってしまいそうになるが、其れを零せば「じゃあ食べなくていい」と云われるのは百も承知であったし、色んな出来事が重なって腹も空いていないので丁度いいかと、余計な事は挟まずにその場を切り抜ける適当な返事を返す。

「返事は一回!」

「はあい」

 昔から云われて来た事だが、敢えて小さな反抗心は其れに従わずに、憎たらしい、間の延びた言葉で応える。女将さんの溜め息と大人達の笑い声に見送られながら疲れた足取りで部屋へ向かおうとしたところで「ほうら、フレン。ユーリも大きくなったでしょう。こんなに憎たらしい口叩いてね」だなんて唐突にフレンにオレの話題を投げかけるのだから、罰が悪い所では済まされない。

 皆が声をあげて笑う中で、フレンも目を細めて微笑んでいる。気恥ずかしくなって居心地が悪くなって、「うっせー」と一声吐いてから態と足音を立てて自室に戻った。

 それから嫌々再び居間に戻り、何故かフレンの隣に置かれてあった自分の飯にありついた。フレンは矢鱈と声をかけて来て、未だ臍を曲げたままのオレは適当な言葉しか返していないと云うのに、彼は始終ニコニコと嬉しそうに笑っていて、何だか申し訳ない気分になってとことん調子を崩されていく。何を話したかも覚えていない。己から口を開いても、またすぐに閉じた。久しぶり、とか、多分そういう事だった気がする。

 フレンの祝いの席だと云うのに、バカみたいに騒ぎ立ててくれる大人達のお陰で交わす言葉も少なくて済んだ。

 隣同士に座っているのに、距離が感じられるのはどうしてか。昔なら、フレンの隣がいいと自ら座りに行ってたのに。酔っぱらいの話に付き合いながら、嫌な顔一つせずに会話をするフレンを横目で見やって、茶碗に残った米粒を箸で摘んでゆっくりと食べた。

 呑み込んだが、味はしない。

 久しぶりに会えて嬉しいのは本当。でも、それは言葉にできなくて、それを実行するのはまた明日にしようと引き延ばして行った。

 それから当たり障りも無く、特に進展もなく月日が過ぎて行く。

 オレは不格好な生徒を演じて、フレンはフレンで、学校では完璧なまでのセンセイとしてオレに接した。それでも時折見せる幼なじみとしての笑顔や、強ばっていない、柔らかな口調に意味の無い特別を感じたりして。

 フレンが地元を離れるまでは、もう彼にベッタリであった自分達の味気ないやり取りにきょとんとする者もいなかった訳では無い。周りはまた昔の様に、オレがフレンフレンと後を追いかけて行くとばかりに思っていたらしいが、実際は敢えて距離をとっている風にも見える、オレのフレンへの接し方について、何か特別口を挟む事も無かった。

 でも、それでいいんだと何処かで納得した。

 フレンと話したくない訳ではなかったけれど今更どのような顔をして甘えればいいのかも分からないし、そもそも少なからずオレの中では、地元を離れたっきりオレにだけ一切連絡をくれなかったフレンに対して思う事は山程あった様に思える。

 怒りは勿論、寂しさとか不安とか、兎にも角にも子供の頃の様に単純にはフレンとの再会を喜べない、中途半端に大人に近づいている面倒なオレがいた、分かる事はそれだけ。

 だのに、フレンはオレと短い会話を交わす度、あからさまに嬉しそうな反応で返して来るのも混乱の原因の一つであった。フレンは意味も無く、オレに連絡をしなかったのだろうか、ただ単に気にしすぎなだけだったのか。そうこうしている内に、溝は一定の距離を保って、埋まろうとする事を止めた。厳密に云うと、オレが歩み寄る事をやめてしまったのだ。

 学校の外では幼なじみとして接しようとして来るフレンに、オレは生徒として接する様になった。フレンの「おはよう」の挨拶に「おはようございます」と返した。あの時見えた、フレンの寂しそうな顔にオレは目を逸らす事で溢れ出て来る何かを押さえつけた。

 意地を張っているのだ。

 では、自分に寂しい思いをさせたフレンに、頭を下げて謝ってもらえれば気が済むのか――そう問われても、頷く事は出来なかった。

 けれど、胸に渦巻く其れを取り払う方法を知らなかった。

 

 そして、予報外れの雨が降っていたあの日。

 

 休んでいた奴の代わりに委員の仕事を引き受けて、教室で夕方遅くまで残っていた自分に「車で送ろうか」とフレンが声をかけてきてくれたのだ。

 フレンが地元に帰って来て数ヶ月経ったくらいのあの頃、相も変わらずオレとフレンは余所余所しくて昔の兄弟の様な関係には全く戻れていなかった。すっかり埋まる事も忘れ去られて、埃さえ溜まっている様に思える溝を挟んで相対しているフレンに、オレは徹底的に生徒として話せば良いのか、折れて幼なじみとして話せば良いのか。そもそもどんな話をすればいいかも分からず、数年ぶりの喜ばしき再会の気持ちはずっと、彼に伝えられずにいた。

 高校生の自分の話を聞いても、彼が面白いと感じるとは思えない。何をするにもフレンの前では自信を無くしてしまって、縮み込んでしまうオレは少し気まずくなってしまうだろう車内の雰囲気を予想しつつ、断ろうと口を開く。

 けれど、散々可愛げの無い態度を取って来たのだ。今ここで断るのも流石に失礼かと思い、頷こうとするが、答えに喉が詰まる。どうしようかと一瞬の間に色々と考えを巡らすが、ふとある事を思い出した。

 その日、自分は偶々バスで来ていたのだ。

 自転車が数日前にパンクして、修理出来ていなかったからである。この時間だとバスは無いだろうし、歩いて帰ろうと思っていたので申し出自体は善く善く考えれば有り難く、オレは怖ず怖ずと頷いた。

 それに窓の外を見やれば凄い風で、これでは傘も吹き飛んでしまうかも知れない。と云うより、朝の天気予報では一日中晴れとの事であった為、オレは傘自体持って来ていなかった。送ってもらって正解だった、良い方向に考えようと一生懸命努める。知らぬ間に日も暮れ始め、厚い雲に覆われた空はすっかり夜の様な暗さを醸し出していた。

 進まぬ歩みでお互い何も話さず並んで歩き、学校の玄関で少し待っててと云われ、その場で数分待っていると教員用の駐車場から出てきたのは、どうやら前住んでいた所で購入したのであろう、この田舎では目立ちそうな黒いワゴンであった。

 車やバイクにはあまり詳しくない自分の見解なので、自信はないが一言で言えば「高そう」であった。恐る恐る、その後部座席に座ろうとしたオレを見てフレンは微笑むと、助手席側を指さして、云った。

「隣、座りなよ」

 有無を云わさぬ様な微笑みに押し流されて、気付けば云う通りに隣へ座っていた。シートベルトまできちんとつけて、エンジンをかけるフレンの横顔を一瞬見てからは、雨が叩き付けられるフロントガラスを何かを思う事無く一心に見つめた。心無しか行儀良くしなければならないのではないかと、座り心地の良い筈の車内で自分の背筋は固まったままであった。

 暫く道を走って、フレンがセンセイとしての姿勢を少し崩しながら自分に声をかけてきた。学校ではどうだ、勉強はちゃんとしているか、なんて。そんな数年ぶりに会った父親にされる類の質問に、自分は曖昧な言葉を並べて適当に答えた。

 片親で育った自分に父親がいたことは無かったけれど、きっといたらこんな感じなのだろう。妙に歳の差を感じ、顔を会わさなかった数年という時間の大きさを改めて見せつけられて、今ではこんな畏まった会話しか出来ない幼なじみはとっくの昔に、元・幼なじみになっていたのかと考えると少しだけ胸が痛かった。

 それは自分が招いた結果でもあるのだが。

 どうやって話していたっけ、彼の顔をどんな顔で今まで見つめていただろう。張りつめた空気を中に閉じ込めた車内は、オレとフレンと、行き場の無い感情を深い夜に運んで行った。窓に張り付く雨粒を数え、それに飽きるとそっと目を瞑る。

 幼い頃、一緒に祭りに行ったあの日、迷子になったオレを探してくれて、おぶって、あやしながら綿飴を買ってくれたフレンが瞼の裏にはもういない様に思えた。

 目を開けて確認する様に、窓に映ったフレンを盗み見するけれど、その顔は昔と何一つ変わっていない。相変わらず女受けの良さそうな整った目鼻立ちと、暗い車内で唯一明るい癖っ毛。この車内の空気を気まずいと思っているのだって、子供である自分だけなのかも知れない。フレンは特に何とも思っていなくて、本当にそれこそ“昔可愛がっていた近所の子供を好意で家まで送ってやっている”に過ぎないのだ。

 どうしてか、余計に気が重くなった。フレンを昔可愛がってくれていた、ただの近所のお兄ちゃんとして見れてない自分に対して。

 だって、もっと特別な関係で、結ばれてると思っていたから。この気まずさや言葉に出来ない感情だって、きっとフレンがオレの中でもっと単純な存在として、そこにいてくれたら抱かずに済んだものなのだ。いつからフレンはオレの傍にいてくれただろう。物心がつく前から隣にいてくれて、優しく微笑んでくれた。

 6歳の時に唯一の肉親だった母が死んで、幼すぎて死の意味を理解出来ずきょとんとしているオレの代わりに泣いてくれた人。葬式の間、ずっと手を握ってくれていたのも“近所のお兄ちゃん”であるフレンだった。

 転んだ時も、迷子になった時も、風邪をひいた時、同級生と喧嘩した時だって。

 そこにはフレンがいて「大丈夫」とおまじないをかけてくれた。そんな彼が、都会の大学への進学を決めた時。寂しくて寂しくて、いじけた当時のオレは「頑張って」とフレンに云え無かったから。フレンはオレのことなんて、どうでもよくなったんだと膝を抱えて泣く事しか出来なかった。

 ――嗚呼、そうか。

 これはあの時の報いで、オレに与えられた罰で、何一つ分かっていなかったままなのはオレの方だったんだ。小さな発見、其れに伴う大きな自己嫌悪。歩み寄ろうとしてくれていたフレンはオレを許してくれていたのに。オレが変な意地を張ったばかりに、このまま、ただの元・幼なじみとして過ごして行くのかも知れない。撤回するにも自分勝手な気がして、それでもフレンは大人だから、子供のオレを許してくれるのだ。

『僕がユーリのお兄ちゃんになってあげる。ずっとずっと守ってあげるから、もう平気だよ』

 当たり前の様なフレンのその言葉が、魔法みたいで大好きだった。

 このままでいいんだとも思った筈だ。けれども本心では元・幼なじみとなってもいいと。それでもいい、なんて、嘘でも云えなかったんだ。

 情けなくなるくらいに大切な人だった。会えなかった数年の間もずっとフレンはオレの中にいて、また会えて嬉しかった筈なのに、何とも思ってない様に接した。帰って来たフレンと会話する事も無く、自室に戻ってくオレの後ろで女将さんが「思春期なのかね、あの子も」とフレンに言ってるのが聞こえて、たまらなく恥ずかしい思いをした。

 子供でしかない自分と、大人になったフレンが間違いなくそこにあるんだと分かったから。

 不意に、中身のない話を永遠と続けていたフレンの声が止む。どうしたのかと思わずガラスに映っているフレンへ視線を移すと、彼と目が合った様な気がした。

 此処で声をかければ良かったものの、また不自然に目を逸らしてしまって、突然訪れた沈黙と、オーディオから流れるラジオの陽気な声だけが車内に溢れた。窓を叩く雨も、また変わらず。

『では次のリクエストです』

 ラジオでは少しの雑音に混じって、リスナーからのメールがパーソナリティーの女性によって読み上げられる。

 内容は若い女性からの、歳の離れた親しい先輩に恋をしたという様なものであった。子供だと思われているのが辛いだとか、どうすれば相手と同じくらい余裕が持てるのか、だとか。少しだけ自分の気持ちに似た部分があって、今まで頭に入って来なかったラジオの内容が鮮明に耳へ伝えられる。

 少し違うのは自分の場合は恋だとか、そういう気持ちではないと云ったところか。兄弟だと思っていた野郎に、数年ぶりに会ったら遠い親戚みたいに扱われて、それもこれも自分が原因で嫌気がさしているだけのこと。

『なるほどぉ……でも、こういう相談を聞いてて思うんですけども』

 間延びした話し方をする、パーソナリティーの自己恋愛観がつらつらと語られる。その間、見慣れた店を横切ったのが見え、そろそろ家まで近いのが分かった。

 結局、なにも出来なかった。この数十分間、自分は窓を眺めていただけであった。少し距離のある学校から家まで、雨の中送ってくれた彼に背を向けて。可愛げの無い自分に、彼はもうこの時点で呆れてるかも知れない。

 いや、でも。フレンは大人だから。

 オレは思春期だから、って。心の中で微笑ましく思ってるのかと思えば思う程、泣き出しそうになって、早く家に着けば良いのにと強く祈った。

 追い風に濡れて帰れば良かった。膝に乗せていた鞄をぎゅっと握って唇を噛む。

 するとその時。オーディオからリクエストだったらしい曲の伴奏が流れてきた。

 それは自分のミュージックプレイヤーにも入っている、聞き慣れたバンドの曲で目を見開く。

 読み上げられたメールには「彼と私が、好きな曲」と紹介されていて、自分も好んでいるこの曲に、寂しさを紛らわしたくて耳を傾けていると、隣のフレンが唐突に嬉しそうに呟いた。

「あ、僕の好きな曲だ」

 

 その言葉に自然と、オレの目がフレンの方に向けられる。

 

「ユーリもこの曲、知ってる?このバンドの三枚目のシングルでね、僕が学生時代にやってたドラマの挿入歌にもなってて。元はボーカルの人が留学する先輩の為に綴った曲なんだけど」

 自分の好きな物の話になると、聞いていない様な豆知識まで語るのがフレンの癖だった。

 子供みたいに顔を綻ばせて、メンバーがこの曲で伝えたかった歌の意味、実際ライブで初めて聞けた時の感想とかを、聞き手であるオレを置いてけぼりにして話し始める、その様子は昔と何一つ変わっていなかった。

 大人になってしまったと、決めつけていた彼が少しずつ解けてく気がした。

 昔から普段のお互いの意見は全然違ったりするのに、好きな漫画とかだけは同じだったことも思い出す。

 何も言えずに頷きながら、流れてくる曲に思いが重なって、ちっとも言葉が思い浮かばなかった。

 始業式のあの日、あの瞬間。胸に溢れた気持ちは喜びだった。でも、それに混じって子供っぽい憤りも混じっていた事は確かだ。大学生になったフレンは、一度も自分の元に帰って来てくれなかった。それどころか、手紙さえ寄越さないで。女将さん達には電話をしていたらしいが、オレには連絡の一つも無しだった。

 フレンが過去に通っていた中学に同じく入学して、フレンのおさがりの制服に腕を通した。周りが、やっぱりサイズがピッタリだと話し合う声の中で、自分は一番にこの制服姿をフレンに見て欲しかった。

 大きくなったねと、ただその一言が欲しくて。しかし中学もあっと云う間に卒業してしまって、少しくたびれた制服は持ち主もいなくなり、今じゃ箪笥の底だ。

 毎年正月には期待もしたし、フレンからの年賀状が来ないかと待ったりもした。

 でも、待ち飽きたんだ。いや、違う。待っても来ない寂しさに、堪えれなくなったんだ。

 高校生となって、やはり高校も、フレンと一緒の地元の学校であった。けれど自分が高校生になるニ年前に制服が変わってしまって、フレンのおさがりに腕を通す事はその時からなくなった。

 友達の輪も広がって、他校の可愛い女の子からメールアドレスを聞かれたりして。日常生活が忙しくなって、背が伸びるのと比例して伝えたい言葉が増えていく一方で、頭の中からフレンの影が漸く薄れた頃。

 どうして、自分の目の前に再び現れたのかと。

 折角忘れようとしたのに、これじゃ意味なんてないだろうと腹が立って、苦しくて、嬉しかった。

 怖かった。何もかもが変わってしまったのかと、思っていたから。

 変わってしまった彼に、変われていない自分が、どう接したら良いのか分からなくて、恥ずかしくて。

 相変わらず力説しているフレンの顔に思わず笑みがこぼれて、苦しい筈なのに何故か安心して、俯いたまま小さく笑った。隣にいる彼が変わったと、思い込んでいたのは自分だけだったとフレンの笑みが訴えて来ている風にも見えた。

 そして次に顔を上げたとき、知らぬ間に家の前で、車は既に止まっていた。オーディオからは、その曲のサビ部分が丁度流れている。何気なく隣のフレンを見やれば、オレを見つめて目を細める彼がいた。

 優しそうな口元の笑みも、細められた目も、そこに映し出された綺麗な青い瞳も、何もかもがオレが知っているフレンだった。

 もう家に着いたと云うのに、オレ達は車から降りずに少しの間見つめ合って、そろそろ気恥ずかしくなった頃。

 フレンがシートベルトを外すと、空気に染み込んでしまいそうなくらい何か思い耽った口調で、物語を読み聞かせてくれる様な優しくて静かな声で、その胸の内を話し始めた。

「僕さ、君にろくに連絡も寄越さないであっちに何年もいて。帰って来たと思えば、ユーリの学校の先生で……名簿渡されたとき、本当にビックリしたんだ。まさかとは思っていたけど、君の名前があったんだから」

 フレンも、その偶然には驚いていたらしい。オレだけじゃなかったのか、その事に対して、また肩の力が一つ抜けた気がした。

「久しぶりに顔を会わしたユーリは凄くお兄さんになってるし、身長も僕と変わんなくなってて、当たり前だよなぁ……もう五年か六年くらいは顔を会わしてなかったんだもんな」

「……本当だよ」

「ははっ、返す言葉も無いな」

 少しむくれたオレの口調にフレンは笑みを返す。

「ユーリにどんな顔して、会えばいいか分からなかったんだ。倒れた母さんの看病をする為にあの頃はこっちの大学に行くつもりだったのに……でも結局、高三の春に母さんは死んじゃって、なんだか、今のままじゃ駄目だなぁって思ったんだ。僕は形振り構わず勉強ばかりして、君を残したまま遠くの大学に行った。直前まで何も言わずにね」

 そこまで話して一息つき、フレンはボリボリと後頭部を掻いた。ばつの悪そうな表情を浮かべ、情けないまでに眉尻が下がる。

「出発の前日、ユーリは僕の顔を見てくれないし、目はめちゃくちゃに腫れてるし、ああ、凄く可哀想な事をしたなぁって。僕まで泣いちゃいそうだったんだ。大学生になってからも、ユーリに電話代わろうかって聞いてくれる女将さんの好意を拒み続けた。電話越しに君に泣かれたらどうしようって考えが過ってね。泣かれても僕には慰める事もあやす事も出来ないし、帰りたくなってしまうし。お互いにマイナスになるんじゃ……と思い至って。何一つ信じてもらえないかも知れないけれど、いずれは連絡をしようと思ってた。それから一年経って、また一年が経って……今更何を言えばいいか、ユーリは僕からの言葉なんて望んでないんじゃないかって少しずつタイミングが掴めなくなっていって」

 叱られた子供の様な顔をして。オレの顔を見、フレンは頭を下げた。それは謝罪を表すもので、次いで「ごめん」と消えそうな掠れた声が聞こえ、慌ててフレンの顔を上げさせようとする。

 けれどその瞬間、少しだけ項垂れた顔が持ち上げられた。

 フレンの見透かしている様な、深い青色に呑まれて、彼の方に伸ばした手は宙を舞い、そのまま行き場もなく動きを止める。きょとんとしたオレの浮かされた手を握り、そっとフレンは下ろさせた。それは、どんな人の手よりも暖かくて大きな、骨張った手だった。同時に浮かべられた優しい笑みは繋がった拳から流れ来る様に、身体の内側へゆっくりと染み込んでいく。

 何も言わずに聞いて欲しい、言わせて欲しいと、頼まれているようだった。

 強く握られた手は離れようとはしなかった。それどころか少しずつ込められる力が強くなっていって、痛いと感じる手前で心地良い拘束感を与える。強要じゃない、まるで願いの様なそれ。自然と身体が動くままにフレンの手を握り返し、視線で言葉の続きを促した。

 有り難うと、フレンが呟く。

 声は少し、籠っていた。

「覚えてる……かな」

 隙間風が吹き込む真っ暗な部屋の中で灯す、蝋燭みたいに頼りなげで心強い光に似た声が車内で揺れた。何も見えなくて、手探りで迷ってばかりだった二人の心の距離の終着地点を示そうとしてくれている、その光は眩しかった。そして愛しくも有り、オレは願い通りに何も言わず、フレンの声に耳を傾ける。

 それが彼の願いならば、叶えようと、叶えたいと思った。

 目の前の光に委ねようと彼に声を預けたのだ。

 

「僕が行く寸前、君が渡してくれた手紙がずっと僕のお守りだった。あれのお陰で一人でも頑張れた。寂しくても、辛い事があっても、一人じゃないんだ、頑張ろうって思えた。学校の先生にだって、今もこうしてなれてる。なのに、僕の背中を押してくれた君を長い事、寂しい思いをさせて沢山泣かせて……ごめんね、本当にごめん」

 

 語尾に連れて、力強く訴えかける様に変わって行く。フレンはもう一度、大きく頭を下げて謝罪を口にした。

 フレンが伝えたかった言葉。

 どうして、オレが泣いた事知ってんだよとか、誰も寂しかったなんて言ってないだろうとか。何謝ってんだ、反則だろう、って。思う事は山程あって、全部筒抜けだったのかと思うくらい、何年も離れていたのにお見通しだと言わんばかりのフレンからの言葉に六年前のオレが出てきてしまいそうで、視界が一気にぼやけて再び俯いた。

 そうだ、謝って欲しかったんじゃない。オレも、フレンの気持ちなんて知らなくて、勝手に我が儘云って。

 オレのことなんてどうでも良くなったから、フレンはオレを置いて行っちゃうんだと幼心に湧き出た寂しさを、当時のオレは包み隠さずに辺りにまき散らした。その感情を、当事者であるフレンはどんな気持ちで受け止めていたんだろう。

 声をあげて「行かないで」と云うオレに、フレンがどんな気持ちで背を向けたのか。

 仕方のない事なのだけれど、オレは気付やしなかった。

 謝るべきは、オレの方なんだ。けれど、フレンが何も言わないで聞いて欲しいと願ったのは、オレの「ごめん」を聞きたくなかったからで、それに今更気付き、彼の罠に引っ掛かってしまったオレは意味のない噦り声だけが漏れて顔を上げる事が出来なかった。

 情けないね、と笑っているだろうフレンの声にオレは慌てて「そんなことない」と言おうとしたが、震えた声しか出ない気がして、無言で何度も首を横に振るしか出来なかった。

 フレンの言葉を自分の中で並べ、どんな声をかけるのが一番適切なのかを考えたとき、ふと先程のフレンの言葉の中で引っ掛かる語句が有って、それを胸の中で繰り返して口を閉じた。

 ――オレが渡した、手紙?

 眉間を寄せ、首を傾げる。

 当時の数日間のオレと云えば、フレンが遠くに行ってしまうのが嫌で仕方なくて、ずっと泣きながら駄々をこねては大人達やフレンを困らせていた。

 オレもフレンについて行く、と云って話を聞かなくて。ランドセルに自分の服だとか下着だとかを詰めては、とうとう「いい加減にしなさい」と頭を叩かれたのも、朧げな記憶の中で薄ら何となく覚えている。

 そんなオレが、フレンに手紙なんて書けたのだろうか。

 思案顔を浮かべるオレの言いたい事が分かったのか、フレンが一層声を和らげると「覚えてないか?」と問う。

 素直に頷けば、フレンが後部座席においていた自分の鞄を引っ張って来て、中から徐に財布を出した。

 彼らしい、飾り気の無いシンプルな財布。長い事使っているのだろう、所々に傷のついた、馴染んだ革の財布から一枚の皺くちゃになった紙切れを取り出した。

「これ、僕のお守り」

 自慢げに云いながら、少しでも力を入れれば破れてしまいそうな紙切れを大切そうに開いて見せた。

 見せられた紙の中。

 擦れて薄れた下手くそな鉛筆の文字が、あちらこちらから弾き飛ばされた様に、それはもう不格好に並べられていた。

 でも、それは、確かに読む事が出来た。しゃくり上げるのを我慢しながら、鉛筆を握ったのだろう。所々、力が入り過ぎて濃くなった部分の紙が破れていた。

 並べられた文字を、順を追って読む。

 頭に刻み込まれていくその文字に、忘れていた当時の自分自身が、そこには取り残されていた。

「……がん、ばっ……て」

 口から、読み上げた手紙の内容が漏れる。オレの言葉に彼が、笑った気がした。顔は見てないから分からない。でも、そんな気がしたから、きっと笑ったのだろう。

「……僕が行く当日、君は宿屋の二階の一室から降りて来なくて。僕がそこを見上げた時の事、覚えてる? カーテンの裏で、ユーリが僕の事を見ていることに気付いてたんだ。君はカーテンで顔を擦りながら、この手紙を上から投げてくれたんだよ」

 紙切れを、フレンはまた大事そうに小さく折り畳んでは財布の中へ仕舞い込んだ。その動作を見つめて、閉じられた財布を見届けると不意に大きな手がこちらに伸びて身体を強ばらせる。

 頬に滑った暖かくて骨張ったフレンの手は、随分とくたびれた様に感じた。けれど、オレの大好きだった手である事には変わりなくて、目の前に広がったフレンの顔は、あのとき、バイバイを云えなかったオレを見上げた優しい顔そのものだった。

 「おかえり」と云えなかった数ヶ月間の言い知れない不安感や、寂しかった数年間を何も言わずに頷きながら、分かってくれていた顔がそこにはあった。

 否、実際、フレンはずっと分かってくれていたんだ。

 思えばフレンが行ったあの日から、今の今まで流していなかった涙が、それはもう情けないくらいの量となって止まらずに、オレの頬に添えられたフレンの手も構わずに濡らしていった。

「あんなさよならをして、ユーリに嫌われたってずっと思ってた。何をするにも心残りで。だから、帰って来てから君にどんな扱いを受けようとも何も云えないなって、覚悟、してたんだけど」

 フレンの顔が近づき、額が引っ付けられる。

 

 目と鼻の先まで近づいた顔の距離に、息が詰まった。間近に見えたフレンの長い睫毛が伏せられたかと思うと、次は寂しそうな青色に泣きじゃくったオレの顔が映り込んで、会いたかった人の中に自分がいると自覚し、胸がぎゅっと締め付けられた。

「君に目を合わせてもらえないのが、すっごく辛かった。何を話せばいいか分かんなくて、情けなくて。教卓から見える君が、もう僕が知っている頃のユーリじゃなくて。すっかり大人になっちゃったんだって思った。出席を取る時、ローウェルって呼ぶ度、君が小さな声で返事をして。それが毎日積み重なって……余計に離れて行く気がして」

 

 ――夢を掴んで、君の前に、最悪な形で現れる事になって。ずっとずっと後悔してた。

 

「ばか野郎」

 

 頬に添えられた手に、自分の手を重ねた。そしてやっと出た言葉が、その一言だった。

 オレだって後悔してた。今更、何て言えば良いのか分からなくて目も合わさずに。毎日顔を会わしていたのに、フレンがなにを言いたいかも聞こうとせずに。だから、謝らなくていいと。後悔なんてするなと、自分でもなにを言っているか分からない状態で泣きながら言葉を紡いだ。

 どうして泣いてるのか、考えれば考える程馬鹿らしくなって涙が止まらない。

 フレンに握られていた方の手を抜き出し、袖を捲って曝け出されていた腕で、あの時カーテンで拭っていた時と同じ様に、強く目を擦る。

 けれど、目元を擦るオレの手を、前とは違ってフレンの手がそっと止めた。

 涙でぼやけた視界にフレンがいる。その後ろには宿屋の明かりが見えて、こんな顔では帰り辛いなと考えていると、目を擦っていた手にいつの間にかフレンの指がするりと絡められ、指の間にまでじわりと染み込んだ彼の体温に段々と顔が熱くなる。

 ガキの頃だって、こんな手の繋ぎ方はしなかった。世間で言う所の、恋人繋ぎと呼ばれるもの。硬く握られた手は、先程まで握られていた時以上に解けなくて、おまけにフレンの視線はオレを逃がしてくれない。

 頬に添えられていたフレンの手。その上に重ねていた自分の手をゆっくりと退かすと、それが合図だったかの様にフレンの顔が先程よりも一層近づいて、自分の唇に何かが重なった。

 キスを、されている。分かっても、拒む方法が分からなかった。

 角度を変え、身動きの取れないまま再びキスをされ、ぴったりと重ねられた粘膜が心地良くて自然と瞳を閉じた。キスなんてした事がない。でも、いざフレンの唇が離れそうになった時、無意識にオレは彼を追いかけて貧欲にその続きを強請った。

 呼吸の仕方も分からないまま鼻をすんすんと鳴らして、時折漏れるリップ音に顔に熱が集まっていった。フレンの舌と思われる柔らかな感触と、混ざり合う唾液は甘く感じて、腰が浮く様に小さく跳ねるのも止められない。意地悪く唇へちゅっと吸い付かれて慣れない感覚に背筋がゾクリとし、優しくて気持ちいいそれはほんの一瞬の出来事。

 どうしてそんな事をされたのかが分からず、でも拒まなかったオレも共犯かと、涙の膜で覆われた瞳を震わせてフレンの顔を見れば。

 自分と同じくらいに顔を真っ赤にさせているいい大人が、目の前にいた。その様子に涙も乾いて、なにを言う訳でもなく見つめていると、サイドブレーキを挟みながら抱き寄せられて、気まずそうなフレンの声が耳元で聞こえた。

「……ごめん、すごく、可愛くて……あの……」

 どんな言い訳が飛び出してくるかと思えば。

 オレのファーストキスを奪っておきながら、この大人はそんな下らない理由であんな事をしたのかと、思わず吹き出して、その背に手を回しながら「ざけんな」と笑って答えた。怒ってなんかない。可笑しいけれど、普通なら有り得ないのだけれど、彼からのキスには全く抵抗感も嫌悪感も抱かなかった。喜びに似た何か。異常だと云われても、もう自分を誤摩化す事は出来やしなかった。

 フレンの事が好き。それがどんな形であろうと、自分の中で揺るぎ様の無いたった一つの本音。ましてやそれが、キスをされても平気だと思ってしまう類の好意だとは自分でも思いもしなかったが。

 悪く云えば雰囲気に流されてしまってだけのキスではあった。子供の頃にした様な、おふざけとは程遠い形の触れ方。男同士であるのに、これも馴れ合いの延長線だと思うことにする。

 昔の様に、フレンの胸に顔を埋めると頭を撫でられて目尻がとろんと溶けそうになる。目も腫れて帰り辛い、お前の所為だと意地悪く言葉を続ければワタワタと慌てて、自分の部屋に泊まるかと提案までして来て。年上をいじめるのはやめにしよう、可笑しくてクスクス笑っていると困った風な顔をしたフレンが腫れた瞼を撫でて耳元で囁いた。

「好きだよ、ユーリ」

 その言葉に深い意味はない。きっと、そう。

 フレンの胸に身を預けたまま、無言で頷いた。

 聞こえていたあの曲はもうとっくに終っていて、聞こえるのは静かな雨音だけであった。

 それから、今日まで。オレとフレンは幼なじみ兼、兄弟兼、先生と生徒兼、ほにゃらら。と、微妙に親密で、はっきりしようのない、いや、してはイケナイ様な関係を築いている。云ってしまえば、アレやコレやとする関係である。

 蟠りのなくなった二人の仲は、一見すると昔の様に仲の良過ぎる幼なじみに戻りつつはあるが――勿論、学校ではそんな素振りなど周りに見せない様にしている――何もかもが解決した様に思われたオレ達の関係だが、今現在の問題と云えば、我が儘を言いたいのに口に出来ない、自身の変なプライドとやらに苦しめられ、フレンとキスをしたり触り合ったりはするくせに、肝心な言葉さえも伝えられていないこと。

 どうせ六限目に彼の授業があって、放課後だって話そうと思えば話せるのだから。

 自分達は一体フレンの何なのだろう。恋人、というキーワードが頭に浮かぶがこっぱずかしくて美味く呑み込めない。恋人とまではいかない。でも、それに近い何かでなのではないだろうか。

 別に恋人になりたい訳では無いが、もうその関係に値する様なことを、初めてキスをしてしまったあの日の様にしてしまっているのだから。

 でも、その。セッ……いや、性行為、とか、そういうのはしていない。同意のもとで触られたり、擦られたりはしたがと、考えた所で思わず行為の全貌を思い出してしまい、自分はこんな所で何を考えているんだと廊下の端で踞った。

 フレンは「卒業したら」と言っていた。

 それって、つまり卒業しても傍にいるってこと。フレンは確かにずっと傍にいると言ってくれたけれど、それはどんな形でオレの元にいてくれるのだろう。

 嬉しい、でも、考えようによれば自分は未だ、そういうことをするに至っていない年齢だと真っ正面から言われた事に変わりない。其処まで考えて、朝に自分が送ったメールを思い出す。内容は、特に凝ったものでもない。少しの我が儘と、おねだりだ。

 朝行けなかったから、一緒に帰ろう。その一文のみである。

 キスと抱擁、触り合い。其処までは大丈夫で、どうしてセッ……ク……性行為は駄目なのか。これだとオレがしたくてしたくて堪らないみたいになっているが、そうじゃない。

 肝心な所はセック……性行為にあるんでなく、自分がその対象に見られていない事なのだ。男同士のあれそれの知識も、一応ある。今じゃインターネットという強い味方もいるし、フレンと万が一そういう事になって迷惑をかけるのも嫌だと調べに調べぬいた。動画だって、一応見た。だが視覚的にあまり好むものでなく、自分はフレンじゃない野郎の局部を見たい訳では無かったので途中、断念したのだが。

 何も知らない子供と云う訳では無いのだ。だから、その。

 でも自分が淫らだと思われるのも癪に触るし、自分ばかりが求めて狡い。

 今朝の事だってそう。フレンはオレと一緒に行けなくても、寂しくないのだろうかと一瞬でも考えてしまう。オレばかりがこんな思いをしているのかと思うと、大人と云う生き物は存外冷たい様に思われる。一緒に帰ろう、この我が儘は、彼にはどう捉えられるのだろうか。

 フレンは平気で、オレは平気じゃない事。オレは平気なのに、フレンが駄目だと言う事。どうしていつまでも腫れ物を扱う様に触れて来るのか理解できずに、中々保健室から出て来ない友人に溜め息を吐いて教室に戻ろうかと立ち上がった。その時だった。

 

「ローウェルくん?」

 

 聞き慣れ、待ちわびていた声に勢いをつけて振り返る。振り返った先には、フレンが首を傾げて佇んでいた。

「どうしたんだ、保健室の前で……もしかして具合が優れないのか?」

 フレンはこちらに歩み寄ると廊下だと云うのに額に手を当てて来て、それだけの事に大袈裟に反応して心臓がドキドキと喧しい。少し落ち着きを取り戻しながらフレンの手をやんわり退かし、じっと見つめて訴えるとフレンはハッとした様な表情を浮かべ、小さく「すまない」と零した。オレは溜め息で言葉に応えて、乱れた髪をなおす。

 額に手を当てるなんて、オレ達の間では何一つおかしくない。しかし、先生と高校二年生にもなる男子生徒が必要以上に触れ合って、熱がないかと確認する光景はさぞかし異様であろう。すかさず、周りに見られていない事を確認。誰も先程の触れ合いは見ていなかったらしく、廊下を行き来する生徒達は前を素通りして行く。ホッと安堵の息を漏らしたオレにフレンはもう一度「ごめんね、うっかりしてた」なんて小さな声で謝って来て、ぺしゃりと垂れた犬耳は幻覚だろうか、薄らと見えた気がして可愛さに目眩。何も言えなくなってしまい、四捨五入すれば三十路の男に白旗を振って、怒っていないと言い表す微笑みを浮かべた。

「いーよ、今更センセイの天然に怒るわけねーだろ」

「うう……というか、具合は大丈夫なのか? 顔色は余り悪そうじゃないけど」

 普段は上手い事誤摩化すくせに、少し心の余裕をなくすとフレンはこうして普段の癖が出てしまう。彼の天然には慣れているから、その分オレのカバーで毎回どうにかなっているが。

 でも言い方を変えれば、余裕をなくすくらいにオレの身体の具合が気になったと云う事だし。これが愛されている、と云う事なのだろうか。さり気ない愛情を注がれて幸せを感じるのもオレだけ。フレンは分かっていない様子で、具合が悪いのかと云う問いにオレが答えるのを首を傾げて大人しく待っている。

「べつに、オレがどうこうって訳じゃね……ないです。アシェットが腹が痛いとかで騒ぎだしたから、ついて来ただけ」

 顎で保健室の扉を指し、自分は付き添いで来て、あまりに戻って来るのが遅いので教室に帰ろうとしていたと話す。それを聞いてフレンはあからさまにホッとしように顔の筋肉を緩ませたのも束の間、「アシェット君は平気なのか」と真剣な表情で保健室の方へ入っていこうとする。

「たぶん、仮病っすよ」

「いいや、そう決めつけるのは良くない」

「五限目の科学の小テスト、勉強してないから絶望的だ、早退したいって朝から言ってましたし」

「……なるほど」

 少しの間。その後に、はぁ、と聞こえる溜め息。

 本当に仮病かもどうかも分からないし、今入っていったらややこしい事になるだろうとフレンは扉から身を引く。もしも仮病と分かったら真面目な彼の事だ、ダラダラと説教を垂れてしまうに決まっている。その己の性分を熟知しているのか、何も言うまいと困った風に笑った。意外と融通も利くのだ。自分が幼い頃のフレンは堅物そのものだったけれど、再会してからは丸くなった部分もある様で、程良く先生らしい厳しさと真面目さを持ち合わせつつも生徒の事は信用していると許す事も多い。

 そのことから生徒からも人気だし――女子生徒からはそれ以外の面でも人気なのは勿論だが――結構、先生と云う仕事は彼に合っていると思える。

 顔は見つめるこちらが恥ずかしくなるくらいに整っていて、性格も嘘みたいに優しく、程良く真面目。背はスラッと高くて嫌味なくらいに長い手足だとか、甘くて居心地のいい声なんてフレンに惹かれる要素を挙げて行ったらキリの無いようにも思える。これは欲目とかじゃあない。寧ろ、そんな彼を昔から間近で見ていた自分にとっては、だから何だ、それでこそフレンなのではないかと首だって傾げたくなる。

 オレが当たり前だと思っていたフレンと云う人物は、世間一般から見ると、それこそドラマや童話に出てくるヒーローや王子様のように見えるのだと、クラスの女子達が熱弁していたのを思い出す。彼が教科書を音読する時なんて教室は自然と静かになるし、訳の分からない評論だって、フレンの声で謳う様に読み聞かされてしまえば厭でも耳に入ってくる。

 ちなみに、フレンの担当教科は現代文。なのに高校レベルならば数学や英語の質問だってある程度答えられる程のオールマイティーっぷりで、この学校に来る以前は名門エスカレーター式の女学院の教師をしていた等とほざくのだから、その計り知れないスペックの高さだ、フレンがオレと仲良くしてることなんて知りもしない女子達からすれば憧れの対象になるのは仕方のない事なのかも知れない。

 幼稚園から大学までの一貫校で、正真正銘の本当のお嬢様しかいないと専ら噂の学園に身を置いていたらしいフレン。こんな辺鄙な、何処にでもありそうな高校にいるよりかは、よっぽど想像ができる。

 そんな凄い(らしい)所に務めていたのに、どうしてこんな田舎の学校に来たのかと、前にフレンに問うた事があった。

 フレンは少し考えてから、ウウンと唸る。

 この学校と前の学園の偉い人が知り合いで、色々あって、僕はその交換条件ってところだろうか――なんて肝心な所は言わずに言葉を選びながら曖昧に答えた。学校の偉い人、何とも抽象的な例えである。と云うより、交換条件としてフレンがこちらに寄越されるなんて、どういった取引だったのかを考えさせられたが真相は闇の中。本当はこっちに来るのはもう少し後の予定だったんだけどね、と。

 どうして、なんで、問い詰めたかったが、それ以上模索しても意味がないと察して諦めた。

 そしてフレンがこちらに来た理由として、もう一つ。気になる事がある。

 ――エステリーゼ・シデス・ヒュラッセイン。美しい字で、その名が差出人の所に書かれた手紙はフレンの自宅に毎週かかさず届き、フレンもそれに絶やす事なく返事を書いている。一目で女性の名前だと気付き、携帯や電話がある、このご時世でどうしてフレンが女性と手紙でやり取りしているのかが不思議で、少しの疑問を抱いていた。

 曰く、“エステリーゼ”さんはフレンの元教え子で、携帯などといったものを買い与えられることは一切禁じられているのだとか。だから、こうして手紙でしかやり取りが出来ないらしい。幼い頃から病弱で、学校も休みがちだった彼女の家まで態々出向いていたフレンは、“エステリーゼ”さんと親しくなり、彼女の家の人からも信用され、勤め先が変わった今でも交流を続けている、フレンの話しを聞いて、自分なりにそう解釈した。

 “エステリーゼ”さんとやらと、フレンがどのような信頼関係なのかは知りもしなかったが、まさか女子生徒に手を出してこの学校に飛ばされた、とかではないのだろうなと前にフレンの部屋でダラダラしている時にオレが冗談半分で質問すれば、フレンはきょとんとした後、腹を抱えて笑って「エステリーゼさんは本当に、ただの可愛い生徒なだけだよ。僕のそういった興味をそそる生徒は善くも悪くも、今までもこれからもユーリだけなんだけどな」――心配しないで、そう囁き、腹が立つ程綺麗に微笑まれて気が抜けた。

 仕返しと云わんばかりに、心配なんてしてない、噛み付く様に抗議するとフレンはふにゃりと笑って、そのまま真正面から抱きしめられて、キスをされて。

『僕だって君にそんな風に思われるのは不本意なんだけど』

 そのまま畳に組み敷かれて、暗転。

 その時も最後まではしなかったなあと考えて、ハタと思い出す。そうだ、そういえば、オレはフレンに怒っていたのだ。

 そもそもこの阿呆はメールを見たのだろうか、否、読んでいないからその話題が一切出ないのだろう。こまめな彼が、読んで置いて返信を怠るとも思えない。電話だってそう、留守電を入れていなくても必ずかけ直してくれるし、遅れても必ずリアクションを返してくれる。忘れていた筈の幼稚なやさぐれた感情が沸々と再び湧き起こり、目の前の完璧な思い人に眉間の皺が濃くなっていく。

 フレンとの思わぬ邂逅に怒りさえも忘れている時点で、何もかもがフレンに負けた気もするが。

「じゃあ途中まで一緒に歩こう」

 今から教室に帰るのだろう、僕も職員室でご飯を食べるからと、オレの心情など知らぬフレンは微笑んで隣に並ぶ。近づいた距離に足下が浮つくのを心の中に放り投げた鉛で沈め、気を抜けばニヤけてしまいそうな口元を張り上げ、出来る限りの仏頂面を浮かべてみせる。それでも顔を覗き込み、首を傾げては、オレのことだけを青い瞳に映してくれる愛おしい姿にキュンとする。どうしてそんなに可愛いのだ、格好がいいのか愛らしいのかどちらかにしろ、いい大人が一粒で二度美味しいなどズルい他ない。オレの若いトキメキを弄ぶ、目の前の大人から思わず目を逸らし、頷くだけで返事を返した。顔は赤らんでいないだろうか、張りぼての余裕なんて彼の前ではいとも容易く崩れ落ちてしまうのが悔しい。いつか、彼のこんな態度もかわせるくらいの余裕が自分にも備わるのだろうか。備わってくれなければ困る。主に、心臓が。

 今すぐにでも抱きついて、甘えて、頭を撫でられたくなる衝動をグッと抑え、頑に仏頂面(仮)の表情を緩めずにフレンを見つめた。オレの顔を見、フレンはオレの返事を聞いて歩みだそうとしていた足を止める。

「どうしたんだい、ローウェルくん。変な顔して」

「センセイ、携帯、見ました?」

 その変な顔も何もかもがお前の所為だよ、とまでは言わなかった。携帯は見たか、と云う質問にフレンは一瞬考えて、何か思い出した様に言う。

「いや、今日はウッカリ携帯の充電を忘れてしまってね、どうもバッテリーが無くなってしまった様で。職員室に充電器もあるんだけど、朝から会議があったりと色々立て込んで触る暇もないし……どうして?」

 なるほど、そういう事だったのか。フレンの事だ、どうせ誰からも連絡は来ないだろうと気を抜いて、充電は昼休憩にでもしようと考えていたのだろう。まさか、このオレが久しく朝からメールを送って来るなんて――オレがメールを送るのは、決まって夜が多いから――思わなかっただろう。

 もしかして無視をされているのかも知れないと云う不安感が取り払われて、少し安心する。

「あれ。もしかして、何か大事な用事があった?」

 フレンの勘は鋭い。オレは頷く事もせずに、フレンのスーツの裾をキュッと引っ張る。するとフレンの顔が少し緩んで、急に甘える様な行動をとられて嬉しい、と公然に感情を瞳に表された。フレンの些細な感情の変化にもオレは目敏く気付き、フレンの気の弛みを利用してグイと大きく引っ張る。

 大きな身体が、傾いた。

「次の定期テストの範囲で分からない所があるんで、ちょっとこっち来てください」

 廊下ではし難い話題だと判断。人通りがない訳では無い廊下を、フレンを引っ張りながらズカズカと歩く。元よりオレとフレンが幼い頃からの馴染みである事を知っている、生徒や先生が少ない訳では無い。だからこそ、フレンに渡すつもりの恋文などをオレが預かる事も多く、代わりに渡してて、なんて言われる度に複雑な気持ちになったりもするのだが。流石に先程の様に額に手を当てて、体温の確認などしていれば神妙な視線を向けられるだろうが、こうして引っ張って歩く分には支障ない。フレンはと云えば、足がもつれそうになるのを頑張って堪えて、オレの名前を焦る様に呼んでいる。生徒としてのオレを「ローウェル君」と呼ぶのに対し、プライベートな所では「ユーリ」と呼ぶフレン。

 そんな彼が焦っている今、口から出るのは「ユーリ」の方で、学校で「ユーリ」などと呼ばれてしまうとなんだか彼の部屋で引っ付いたりしてるときの事を思い出してむず痒くなる。オレだって、まだ若いのだ。それくらいの衝動はある。

 廊下で擦れ違う人達にクスクスと笑われつつフレンを引きずって歩き、漸く辿り着いたのは人通りの少ない裏庭の影。見た所、表の校庭から昼休みを満喫する生徒の声は聞こえるが、裏庭の方の人影は自分達以外、見当たらない。ここならいいかと呟き、強引に引っ張って来られて少し息切れをしているフレンに顔を近づけた。

「わがまま、言っていい?」

 少し背を押されれば、キスしてしまいそうな距離。フレンの顔が視界一杯に広がって、いつ、誰が来るかも分からない場所で、こんな風に密着していると云うシチュエーションが自分を大胆にさせる。フレンの長い脚に自分の脚を絡ませ、胸もぴたりとくっつける。胸の鼓動を共有する様に、トクトクと響くのは心地が良かった。

「わ、我が儘? というか、ユーリ、離れなさい」

「やだ。朝、オレのこと置いてった仕返し」

 我ながらズルいとは思う。案の定、フレンは「う」と唸って、密着した身体を離そうとする抵抗をやめた。

 会議があって、フレンも朝は忙しかったと言うのは分かってる。でもそろそろ、本当の自分だって曝け出しても、いいんじゃないかと思った。我が儘で、我慢が嫌いで、余裕なんてないくらいお前のことが好きなのも。分からなくていい、知って欲しい。良い子なんかじゃないオレのことを。

 何度置いてかれたって平気な素振りをすることは、もうそろそろ限界だった。これが最初で最後の我が儘だからと、少し背伸びをしてフレンに子供っぽいキスを仕掛ける。

 フレンの胸に凭れ、啄む様に形のいい唇に吸い付いてからすぐに離れた。初めて校内で交わした彼とのキスは、フレンがたまに息抜き程度で吸う煙草の苦さがほんのり香って、何故だか少しだけ甘い。喫煙室で何本か吸ったのかなと、ぼんやり考えてフレンの首に腕を巻き付けた。

 こっちの学校に来るまでは結構なヘビースモーカーだったらしいのだが、今では止める事までは出来ずとも本数は激減する事に成功しているらしい。けれど自分は、フレンが煙草を吸う姿が好きで、別に無理してやめなくてもいいのに、何て思っている事は秘密。歯にヤニがつくし、咳き込む事もあるから禁煙したいのは山々なんだけど、と話しつつもクシャリと折れたケースから一本だけ取り出して、ベランダで風に吹かれて煙草を味わうフレンの背が好きで、それはもうずっと見ていられるくらいに好きだった。

 それと、キスをしたときの苦さだって。フレンの味だと思うと、その苦さもとびきりの甘味となっていたから。

「今日、一緒に帰りたい。……だめ? 遅くなっても待てるから」

 香水なんてつけてない筈なのに、フレンの首元から香る仄かなそれは、オレの思考を少しずつかき混ぜて行く。

 飾り気のない、ただただ清潔な香り。瞳を閉じ、心行くまで肺をフレンの香りで満たした。

 自分からフレンを求めるのは照れくさくて、中々こういう事はしないけれど、珍しく甘えた態度を取るオレが珍しかったのか、若しくは観念したのか。フレンの大きな手がオレの腰に回って抱き寄せられ、包み込まれる様な大きな安心感に包まれる。

「はあ……そんなに可愛くお強請りされたら、無碍には出来ないな」

 ――今日は残ってる仕事もないし、そんなに君を待たせなくて済むと思うよ。望んでいた回答が、こうもあっさりと出されるとは思わず。

 瞬きを数回繰り返しているとフレンがオレの頭を撫で、そのまま頬に手の平を滑らせると自然に噛み付かれる様なキスを仕掛けられてしまい、一瞬にして身体の力が抜ける。角度を変えて唇の表面を喰らう姿は薄らと開いた瞳で見る限りでも色っぽくて、鼻から漏れた息は快楽を表した。その内熱を持った舌に唇を舐められて、舌が入ってくるかと口を薄ら開くが、続きが来ない。どうしたのかとフレンの顔を見つめたら、至極満足げに「やらしい顔」と笑う端正な顔が其処にはあった。カッと顔が熱くなって、やらしいのはアンタだろと顔を背ける。

「ま、学校だしこれ以上は……キスはお詫びってことで。僕は君のことになると我慢がきかなくなるから」

 オレがフレンとのキスが好きな事を、コイツはよく理解している。なんたって、気持ちがいい。矢張り経験の差がモノを言うのか、オレから舌を入れてみてもその内フレンに絡めとられて翻弄されてしまう。キスだけですっかりその気になってしまうくらいに溶かされて、身体に力が入らなくなった所を毎度頂かれてしまうのだ。

 オレだけがフレンの事が好きなのかも知れない、そんな風に悩んでいた今朝の自分が阿呆らしく感じるくらいに、フレンは恥ずかしくなる様な言葉を惜しげもなく囁いて来て、軽いキスだけでも腰に痺れを覚えていた身体がそろそろ本気で溶け出してしまいそうだった。

 苦しい。どんな風に告げれば、彼に気持ちの全てが通じるのだろうか。我が儘でごめんなさいと思う反面、こんな風に学校で愛されたのなら我が儘を言って正解だったとフレンの肩に顔を埋める。

「……でも、そうだな。君には、色々と我慢させてしまったかも。置いて行ったのは、今日だけじゃないし」

 フレンが深々と呟き、オレの背中を撫でる。手つきが妙にやらしいのは、最近はそういう事をしてなかったからだろうか。そろそろ春休みだ三年の卒業だ云々と忙しくなる時期。フレンの家に招かれても、オレは飯を作って、フレンが書類とにらめっこしているのを遠くから見ているだけであった。あまり仕事の内容には首を突っ込む事はしない方がいいだろうと云う配慮から、自らそのような行動をとっていた訳だが。楽しい事は何一つない。けれど、彼に手料理を振る舞って、一緒に食べて、夜になったら向かいの家だと云うのに送ってくれるフレンを見て「おやすみ」と告げれる事はとても幸せなひと時なのだ。話さなくてもいい、構ってくれなくてもいい。一緒にいれば、それで。

 けれど、それで満たされるのは心だけで、フレンの手によって快感を満たされる事の多い身体はカラカラで、フレンもオレと同じ様に喉が渇いているようだった。ねっとりと絡み付く手の平に、このムッツリ助平と毒吐きたくなる。

 普段の理性的なフレンなら、キスを終えた後にすぐにでも身体を離しそうなものの、中々オレを腕から開放しない。髪に鼻を押し付けたり、括れを手の平で辿ったり。こんな肉付きも良くなくて、筋肉も薄いヒョロヒョロの身体の何がいいのか、フレンは矢鱈とオレの腹や腰を撫でたがった。吸い付く肌の手触りが良くて、何だか落ち着くと言っていたのを思い出す。腰に来る様な撫で方を続け、そろそろ変な気分になって来た頃。このままだと求めそうになり、離して欲しくて腕を突っぱれば少し間を開け、フレンはいい事を思いついた、とでも言う風に「そうだ」と明るい声を上げる。

「明日って、土曜だよね。その次は日曜日」

 何を言いだすかと思えば。今朝、今日は金曜日ですと自分の口で、教卓の前で言っていたではないか。

 思ってもみない発見をしたといった風な口ぶりで、キラキラと顔を輝かせて問うフレンに気が抜け、下半身へ集まっていた熱が少し冷まされた気がする。

「……うん、そうだけど」

 訝しげに、肯定。

 嗚呼、その通りだ。明日は土曜日だ。そして、その次は日曜日だと。オレが頷くや否や、フレンは腰に回していた手を退かし、優しくオレの髪を撫でる。

「じゃあ、今晩から泊まりに来なよ。僕の家」

 先程も述べたが、フレンの家には何度も行った事がある。それこそ招かれた時にしか踏み入れないが――暇を持て余している時に彼から、来るかい?なんて誘われたら行かない以外の選択は無いし――風呂も一緒に入れば飯だってよく作ってやるし、弁当だって暇があれば用意してやる。例えると通い妻みたいな事をしていて、元より料理が好きな自分はフレンに其れらの事を尽くしてやる事自体はとても幸せで、面倒と云うより寧ろ好きであったオレは存外、夫婦ごっこの様な生活も悪くなかった。

 加えて、オレ達が色々とするのは、決まってフレンの家だった。最後まではしないけれど、お互いのを触り合ったり、キスしたり、挿れもしないのに指でぐちゃぐちゃに解されたりとか。お向かいさんということもあって、寝る時間になるまでいちゃついて、程良い時間になったら自分の家に帰るといった感じだ。けれども泊まった事は、一度もない。オレが眠くて眠くて仕方がなく、このまま泊まりたいと零したときも、フレンはおぶってまでしてオレを家に運んだ。後から聞けば、自分がどういった行動に出るか分からないから、との事。あそこまでしておいて今更何を言ってるんだと憤慨しそうになるが、フレンにとってオレと最後までセッ……ク、……スをする、と云うのはある種、最後の砦なのかも知れない。

 まぁ、確かに。歳だって八歳も離れてて、仕事場では教え子となってる子供と……セックスする、なんて。覚悟とかいるのかも知れない。そこまで考えて、オレは取り戻しつつあった自信を再び失いかける。

「いーのか? ……色々、こんなガキ相手に我慢出来なくなったら困るんじゃねぇの」

 少しの嫌味と寂しさが混じった皮肉。泊まりに行きたいのは山々だけれど。今まで渋っていた癖に、泊まりに来いなんて。フレンはきっと、機嫌を損ねたオレのご機嫌とりをしたいだけなのだと踏む。所々、抜けているフレンの事だ。どうせ、そういう事――。

 

「……僕は、そういう意味で云ったんだけど」

「……は?」

 

 そういう、いみって。そういう意味って。

 フレンは「分からない?」と、首を傾げる。分かるも何も、あまりに抽象的で、本当に自分の解釈が会っているのかが分からない。顔に再び火が灯り、もしやこれが間違った解釈ならば、自分の方がムッツリ助平の汚名を被る事となるだろう。だって、あんなに渋っていたのだ。初めて後ろを触られたときだって、自分は勿論最後までする事前提の前戯だと思っていたのに、ある程度中が慣れてくるとフレンは指を抜いて「痛くなかった?」と。大丈夫、と頷けば、良かったと微笑みパンツを履かせられたのだ。

 ちょっと待てと、フレンの手を掴んだが首を傾げられて続きを強請るにも恥ずかしく、そんな事は出来やしなかった。それから幾度と無く戯れの様な触れ合いをし、三回に一回の頻度で後ろを弄られたが、フレンの性器が挿入された事は一度もない。そろそろ、そっちだけでも気持ちがいいと思える頃になって、オレが嬌声を漏らせばいつの間にやら中の本数は三本にも四本にも増えていて「指が揉まれて気持ちがいい」とフレンが囁いてくるのは溜まらなかった。

「てっきりユーリは待ち惚けていたんだと、思ってたけど」

 違ってたかな、とでも云いた気な顔。

 違ってる訳がないだろう。オレはフレンの事をずっと、求めていたのに。

 切ない疼きに苛まれる後ろに、早くフレンのものを与えて欲しい様な、まだ少し怖いような。そこを自分で触るのも億劫で、自慰の時もヒクついているのは分かっていたけれど、何も気にしない振りをして前だけ我武者らに擦り続けた。

 彼の指で貪られるだけでこんなになってしまうのに。もっと太いもので、もしくは長いものでナカを押し広げられたりすれば。先の快感を想像すると、また後ろがズクンと痺れて、フレンの手つきを思い出しながら健気に前だけを慰めて落ち着かせたのは若さの衝動。そんな苦しみから、やっと開放されるのかと思うと言葉が上手く出て来ない。卒業したら、何て言ってたくせに。でも、嬉しいのには変わりなかった。

 フレンにそういう対象として、今、見られてる。それだけでオレの胸は高鳴った。

「――そうだよ、ずっと待ってた」

 頷き、言葉を続ける。アンタが欲しいと、オレが認めるとフレンは自分から待ち惚けていたか否かの話題を振ったたくせに、何だか照れくさそうにするのが可笑しくて、可愛いかった。こうまでしてハッキリと肯定されるとは思わなかったのだろう、クスリとオレが口元に笑みを刻むと、お互いに距離を保って見つめ合う。

 本質的な事は、何一つ聞いてない。だから、今後行われる事が、オレが待ち望んでいた事ではないかも知れないけれど。フレンとそういう事を、ただしたいだけじゃない。云える事は、オレにとって、それはとても特別な事だった。

 怖くて、彼の口からはとてもじゃないけれど恋人として、オレを愛しているかどうかが聞けない代わりに、身体の隅々まで愛してもらえるなら本望だとさえ感じた。

 そりゃ、恋人として、何処までも愛してもらえるのが一番なのだけれど、オレはそこまで欲深くはない。

 オレとフレンは先生と生徒。歳は十歳近く離れていて、お互い子供の頃を良く知る幼なじみ。そして極めつけは、男同士。

 こうあるべきじゃない。健全じゃない、分かってる。それでもこの人じゃないと、オレは駄目なんだ。

 不純な仲と云われても、否定は出来ないだろう。それを悲しむ訳でもないが、少なくとも他人には迷惑をかけていないのだからオレの好きな様にさせてくれ、と云うのがオレの言い分。

 フレンの名誉だって、守り抜いてみせる。彼にとって、重りではない、可愛い幼なじみとして存在し続ける事が許されるんなら――。見つめ合い、キスされるだろうかと頭の片隅で考えていると、大きなチャイムが学校中に響き渡った。

『お呼び出し申し上げます、シーフォ先生、至急職員室までお戻りください。繰り返します……』

 呼び出しがかかり、オレはふっと肩の力を抜いて、目の前のフレンを押しのけると、彼の少し乱れたスーツの襟元を正してやる。名残惜しげに唇を尖らせる大人を「いってらっしゃい」と頬にキスをして送り出してやれば、強く一度抱きしめられて「また、六限目」と顳かみにキスを返される。

「じゃあ、ユーリ。ホームルームが終ったら、図書室で待ってて。迎えに行くよ。女将さんには僕の方から連絡を入れておくから」

「ん。わかった」

 ひらひら、と手を振って、少し小走りで戻って行くフレンの背が見えなくなるまで、視線で追い続けた。

 今の関係も決して悪くない。

 フレンがオレの日常に戻りつつある今、心が満たされているのは本当だ。

 一人鳴らす足音。空を見上げれば、雪雲はとっくに消え去って、この季節には珍しい、澄んだ青空が広がっていた。アクセントを置く様に飾り付けられた飛行雲の切れ目に、上手く言葉にできないオレの気持ちを置いて来た様な気がする。

 寒々しい空気を胸一杯に吸い込み、教室へとぼとぼと歩みを進めた。ポケットに手を入れ、固まったカイロを握りつぶして、風に項をくすぐられながら今日の夜は何を作ってやろうかと彼の部屋の冷蔵庫に何があったっけなあと考えた。

 今日、一線を越えるとしても。きっと、何かが大きく変わる事なんてない。いつも通りの日常に、特別が混じるだけ。

 

(……やば、ドキドキして来た)

 

 ボリ、と頭を掻く。放課後、また会える貴方へ。今日と云う日が自分達にとってどうなるかなど知る由もなかったが、少しの期待を抱いてもいいでしょうか、先生。

 

 浮きだったオレの歩みは、いつの間にやら抑えることも忘れられていたのだった。

© 殴打
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